INTRODUCTION

Baja Bronco

ビル・ストロップ(Bill Stroppe)は、1966年にフォードブロンコが発売されると、すぐにブロンコに携わるようになります。その関係は、フォードにとって、また、ストロップ自身にとって、そして、ブロンコにとっても、素晴らしいレーシングレコードをもたらすことになるのです。それは、デザートレーシングの人気だけでなく、多くの高名なデザートレーサーたちの経歴の始まりともなります。1971年シーズンまでに、ストロップのブロンコは、Baja500そしてBaja1000において勝利を収めました。フォードはこの事実から熱狂的なオフロードファンを満足させうるスペシャルブロンコの製作を決定し、ストロップチームの成功を称える良い機会であると判断しました。1971年1月28日、フォードはバハ・ブロンコをストロップチームカーの限定生産レプリカとして発売することを発表しました。一般に知られているところによると、バハ・ブロンコはほとんどのフォードディーラーから注文することができました。
カスタマーは、バハ・ブロンコ注文書(オーダーフォーム)を記入して、ディーラーに注文したのです。フォードはまず、バハ・ブロンコの準完成車を組み立て、ストロップによって完成させるために、カリフォルニア州ロングビーチのストロップのファクトリーへと送りました。そして、ストロップが改造を終えると、完成したバハ・ブロンコは、顧客へデリバリーするため、注文があったディーラーへと送られたのです。全てのバハ・ブロンコは、フォードによるスペシャルペイントを施されたスポーツブロンコとしてその生涯をスタートさせました。

introduction_bajabronco_02そのペイントスキームは、以下の通りでした。ルーフは、メタリックブルー、ドリップレールからベルトラインまではウインブルドンホワイト、そして、ベルトラインから下はポッピーレッド。フードは、グリルやフェンダーラインと合わせるため、ポッピーレッドに塗られたフードのエッジ部分を除いてはセミグロスかフラットブラックに塗られました。
フォードによる追加装備は、エクストラクーリングパッケージ、低音仕様のエクゾーストシステム、そして、ヘビーデューティーサスペンションから成っていました。フォードはその他の改造もストロップに委ねました。
ストロップは、クロームメッキ又はフラットブラックに塗装されたスティールホイール、または8.5×15インチサイズのスロットマグホイールに履かせたゲーツコマンドXTタイヤを装着するため、リアにオーバーフェンダーを取り付け、フロントフェンダーをカットしました。そして、バハ・ブロンコのコンバージョンには、ロールバー,ラバーステアリングホイール,フロントバンパーブレス,トレイラーヒッチ,そして、バハ・ブロンコのタイヤカバーとフェンダーに貼られたステッカーが含まれていました。

おそらく、バハ・ブロンコのもっとも重要な特徴はそのパワートレインオプションでした。’71年モデル、’72年モデルにおいては、オートマティックトランスミッションとパワーステアリングを備えたブロンコを購入する唯一の方法は、ストロップのバハ・ブロンコを注文することでした。そのように注文されると、ストロップは、バハ・ブロンコにシェビー製のパワーステアリングとC4トランスミッション、トランスクーラーを取り付けました。一般的に知られている事実に反して、全てのバハ・ブロンコがオートマティックトランスミッションとパワーステアリングに改造されたわけではありませんでした。 しかしながら、’73年モデル以降の全てのバハ・ブロンコにはフォードによってパワーステアリングとオートマティックト ランスミッションが装備されました。
ほとんどのバハ・ブロンコがパワーステアリングとオートマティックトランスミッションを備え、そして、わずか4台のみが4速マニュアルトランスミッションであったという事実は、バハ・ブロンコの生産における数多くのバリエーションの始まりにすぎませんでした。ストロップによって“フェイズIパッケージ”と呼ばれたベースのバハ・ブロンコ以外に数多くの異なったオプションをオーダーする事ができました。ストロップは、ミドルシートから、エアバッグスプリング、または、フルロールケージからエンジンモディフィケーションキットまで、数多くの市販パーツを彼の「ブロンコオフロードアクセサリーカタログ」で提案したのです。ある73年式には、競技用シートベルトとショルダーハーネス、ミドルシート、そして、Cibieのオフロードライトが注文され、その他で見かけたものでは、ストロップは、プッシュバーとウィンチ、スウェイバー、エアコンディショニングを装着していました。要するに、全く同じ2台のバハ・ブロンコは存在しないのです。
ビル・ストロップとパーネリ・ジョーンズ(Parnelli Jones)の1971年のBaja1000レースに於ける成功により、ストロップは100台の’71年式、80台の’72年式のバハ・ブロンコをプロデュースしました。そして1972年11月、ストロップとジョーンズは再びその年(1972年)のBaja1000レースに於いて勝利を収めました。その結果、バハ・ブロンコのセールスは好調に推移しその年(1973年)、彼らは120台のバハ・ブロンコをプロデュースしたのでした。しかし、1973年11月、彼らはBaja1000レースに於いて勝利を収める事が出来ず、その翌年(1974年)の6月に開催されたBaja1000レースでは彼らのブロンコは観客に突っ込むという事故を起こしリタイヤし、またしても勝利を収めることが出来ませんでした。また同じく1974年のBaja500レースでも彼らのレースブロンコはリタイヤしています。これらのレースリザルトと1973年10月に勃発した第4次中東戦争による石油危機が1974年のバハ・ブロンコのセールスに多大な影響を及ぼしました。彼らはこの年たった30台のバハ・ブロンコしかプロデュースすることが出来なかったのです。
1974年12月、フォードはストロップカラーにペイントされた30台の75年式ブロンコをストロップの為に用意していました。ちょうどその時、ヘンリー・フォード(Henry Ford)の孫であるベンソン・フォード・ジュニア(Benson Ford Jr.)はロングビーチの大学に在籍していてストロップのチームでレース活動をしていました。1975年1月、彼は彼の友人であるロウ・ヒュエンテス(Lou Fuentes)と結託しストロップの会社を買収することを画策しました。その結果、ストロップは蜜月の関係にあったフォードに対して疑心を抱くようになり、もはやパートナーとしてビジネスを続けることは出来ないと感じるようになりました。こうして行き場を失った30台の1975年式バハ・ブロンコはストロップの手を経ることなく、何のオプションも備えない素のバハ・ブロンコとしてプロデュースされたのでした。これには諸説があり30台の内の約半数はストロップが関わっていたという説もありますが、今となってはどの’75年式バハ・ブロンコがそれに該当するのか誰にも証明することは出来ないのです。このような経緯から’74年式がストロップによってプロデュースされた最後のバハ・ブロンコと見なされているのです。
フォードは実際のところ最後の30台以外に数十台のストロップカラーに塗られた’75年式ブロンコをバハ・ブロンコとして販売する為に用意していました。しかしながら、以上のような理由でそれらがロングビーチのストロップのファクトリーにデリバリーされることはありませんでした。それらの個体はコロラド州デンバーのフォードディーラーがデトロイトのフォードファクトリーを訪れた際に発見し、ストロップカラーのブロンコが自分達の地元のフットボールチーム(Denver Broncos Football Team)のチームカラーと似通っていたため、一部のカラーを変更し“Denver Bronco”として彼らのディーラーで販売することを決定し引き取ったのでした。
フォードの記録によると、ビル・ストロップによってプロデュースされたおおよそ330台のバハ・ブロンコの他に、1971年~1975年にかけて100台から150台のバハ・ブロンコが生産されました。以上のことからバハ・ブロンコの一般的に語られている650台という生産台数は実際には450台程度というのが正しい数字で、その希少性も多くの人がイメージするものよりもずっと高いものであるということが言えるのです。

1971 Baja Bronco Travel Trailer
当ガレージのストック車両である、1971 Baja Bronco Travel Trailerはその経歴から歴史的価値の高いBaja Broncoとして有名です。その経歴とは、最初に作られたBaja Broncoであること、フィアストンタイヤを履いてカタログに掲載されたこと、1971年のBaja500にトラベルトレイラーを牽引して出場した・・・などです。「誕生」から「再発見」までの過程をまとめました。
  • 40年の時を経て、今ここにある奇跡・・・、素敵な事だと思いませんか?当ガレージのストック車両、1971 Baja Bronco Traavel Trailerは、1970年11月にフォードによってバハ・ブロンコのサンプルとして製作された2台の内の1台で、翌年、バハ・ブロンコ生産の為のテスト車両として、ビル・ストロップに引き渡されるまでの間、ファイアストンタイヤを履きいくつかの雑誌やバハ・ブロンコのセールス用カタログに登場した為、ファイアストン・バハの別称を持っています。
  • この個体にファイアストンタイヤが採用された理由として、同時期に製作されたもう1台のバハ・ブロンコには、その後の生産車両で採用された、ゲーツコマンドXtsタイヤのプロトタイプであるゲーツコマンドスペシャルタイヤが装着されており、量産に向けた比較テストの意味合いが強かったと言われています。
  • この個体には非常に珍しいロッカーモールディングがデリバリー当初から装着されていました(他のバハ・ブロンコでこのパーツを装着された個体は現在までに1台しか確認されていません)。そしてファイアストンタイヤに組み合わされたスチールホイールは10Jサイズで、他のバハ・ブロンコの8Jよりも太めのタイヤサイズが試されたようです。
  • この個体のその他の特徴は、フードの先端部分もフラットブラックに塗装されていたことでした。ちなみに同時期に生産されたもう一台のバハ・ブロンコのフード先端部はポッピーレッドに塗られていましたので、ここでも量産に向けて2台が比較されていたのかもしれません。結局、その後生産されたバハ・ブロンコの約5%が先端部分もフラットブラックに塗られたフードを持ち、その他95%はボディーと同色のポッピーレッドに塗装されたものだったそうです。
  • そしてこの個体を特徴付けているもう一つのポイントはタイヤキャリアのヒンジでした。上下2箇所にあるヒンジの両方がポッピーレッドに塗られていたのです。その後、生産されたすべてのバハ・ブロンコのタイヤキャリア上部のヒンジはバハ・ブロンコのペイントスキームを乱さぬよう、ウィンブルドンホワイトに塗られています。
  • 650台生産されたバハ・ブロンコの中で最初に生産されたこの1台のみ、上部のヒンジがポッピーレッドに塗られたのです。そしてそのポッピーレッドのヒンジは現在に至るまで受け継がれています。
  • 1970年11月、当ガレージストック車両の1971 Baja Bronco Travel Trailer がラインオフした時、もう1台のバハ・ブロンコが製作されていました。こちらの個体はバハ・ブロンコペイントが施され、Padded steering wheel、15×8クロームスチールホイールにゲーツコマンドスペシャルタイヤなどが装備されていました。フードエッジもポッピーレッドに塗られ、その後の生産車輌ではゲーツコマンドXtsタイヤが採用されたことなどから、Travel Trailerバハよりもより生産型に近い仕様となっていました。その後、この個体には“476DQV”というカリフォルニアライセンスプレートが付けられたことから、476DQVバハと呼ばれ、Travel Trailerバハ(ファイアストンバハ)と区別されています。
  • この476DQVバハは1971年8月号のPopular Science誌ロードテストや1972年2月号のMotor Trend誌、1971年11月号のFour Wheeler誌の表紙などに登場しています。Four Wheeler誌の長い歴史の中でバハ・ブロンコが表紙を飾ったのはこの号のみとのことで、マニアの中では入手困難なバックナンバーとなっています。このようにTravel Trailerバハと476DQVバハはバハ・ブロンコの創成期において様々な媒体に登場しその存在を世に知らしめると共に、比較テストを通じてその後のバハ・ブロンコの生産に貢献したのでした。
  • 1971年までにカール・ジャクソンのオフロードレーシング界での名声は揺ぎ無いものとなっていました。彼はオフロードのメッカであるカリフォルニア州ヘメット出身のスタードライバー、ロッド・ホーランドやラリー・マイナーなどとリバーサイドグランプリなどで戦い、彼らを打ち負かすことで名声を得たのです。
  • プライベーター達に支配されていた創世期のオフロードレーシングの世界において、彼の1954年式CJ-5はウィナーズサークルの常連となっていました。
  • 1960年代後半、カールは悪名高いオールズモービル製エンジンを搭載したオフロードレースカー、「バハ・ブーツ」のドライブ方法をスティーブ・マックウィーンに教えるためにビック・ヒッキーに雇われました。1969年のBaja500に出場したマックウィーンはカールの教えもあってか切れのある走りを見せましたが、メカニカルトラブルによりリタイヤしています。
  • カールはこのレースにジェームス・ガーナーのチームからランブラー・セダンをドライブし出場しました。カールは10台から成るチームの中でフィニッシュラインまでクルマを持って行った唯一のドライバーでした。カール・ジャクソンの単にレースに勝つ能力だけでなく、レースをフィニッシュする能力は、伝説のブロンコビルダーであるビル・ストロップの目にとまり、カールは1970年代の始まりと共にストロップチームでブロンコをドライブする機会を得るのでした。カールは成功を収め、すぐにレギュラードライバーへと昇格しました。
  • 1970年代初頭、インディアナ州ナパニーを本拠地とするトレイラーメーカーである、キャラバンズ・インターナショナル社は、彼らの新製品であるスプライト・トラベル・トレイラーの耐久性と強靭さを広告するためのユニークな方法を検討していました。1500ポンド積みのスプライトトレイラーはイギリスでデザインされ、キャラバンズ・インターナショナルでライセンス生産されていました。
  • 彼らはスプライトトレーラーを牽引させてバハレースを戦うというアイディアを思いつき、彼らの南カリフォルニアの代理店であるウェイニー・リンジーに相談しました。ウェイニーはそのアイディアを聞いた時、そのプランを実行できるのはビル・ストロップしかいないと考えました。ウェイニー・リンジーはこのアイディアについて相談するためストロップにすぐに連絡しました。チャレンジ精神が旺盛なストロップはこのオファーを快諾し、トラベルトレイラーをフィニッシュラインまで持っていくことができるドライバーはカール・ジャクソンしかいないと即座に判断したのでした。1971年初頭、ストロップはカール・ジャクソンを自らの事務所に呼び、この任務を告げました。こうしてこのトラベルトレイラー計画は実行に移されたのでした。
  • ビル・ストロップはBaja500参戦を前に、1971 Baja Bronco Travel Trailerをカリフォルニア州プレセンシアのフォードディーラー、フェアウェイフォードを通じてウェイニー・リンジーへと売却しました。フェアウェイフォード社長である、ディック・ランドフィールドがストロップの友人であったため、このようなデリバリー経路をたどったのです。この時点でこの車輛の走行距離は10000マイルを超えていました。ストロップの社用車として多くのテスト走行をこなしてきたためで、時にはカール・ジャクソンの元で、Baja500参戦に向けてのトレーニングを重ねていたスティーブ・マックイーンがステアリングを握ることもありました。ストロップはレース参戦の為、既存のロールバーにロールゲージを追加し、いくつかのデカールを加え、レース用タイヤを取り付けました。エンジンはよりパワフルな351ウィンザーエンジンがインストールされ、Travel Trailer BajaはBaja500参戦に向けての準備を終えたのです。リンジーはボルトオンされたクラスⅡのトーイングヒッチが長時間のトーイングに耐えられるか疑問でしたが、ストロップの見解は問題なく耐えられるというものでした。レース当日、許認可団体であるNORRAは全くもってこのブロンコがどのクラスに当てはまるのかを判断することができませんでした。その結果、彼らはカール・ジャクソンとコドライバーのジム・フリッカーのスタート位置を参加した226台の最後尾に決定したのでした。
  • レース当日、カール・ジャクソンは勇敢な態度を示していましたが、内心はこの日のレースがどちらに転ぶか全くもって分からずにいました。レース前のセッションで、コース沿いの岩にクラッシュし、大破したフォード・ピックアップスポーツに遭遇しました。ドライバーのスティーブ・マックィーンとコドライバーのバッド・エキンスはシートパネルがペシャンコになった彼らのマシーンの傍らに立ち尽くしていました。一般にはあまり知られていないことですが、スティーブ・マックィーンはフォードチームからこのレースにエントリーしていましたが、レース前セッションでのクラッシュで出場を断念したのです。ジャクソンとフリッカーは文字通り、バハの厳しい自然の中でトレイラーを引っぱる破目になったのです。レース序盤、荒れたセクションの途中で、彼らはトランスファーがローレンジに入らないことに気付きました。出来る限り負荷をかけないように進みましたが、ノーマルのクーリングシステムは力不足で、水温はすぐに華氏220度まで上昇し、レース中に下がることはありませんでした。
  • トレイラーに積まれた交換されたタイヤとホイールはトラベルトレイラーの弱点をよく表していました。ほとんどの場合、コース幅が狭い峡谷で、カール・ジャクソンとジム・フリッカーはタイヤを即座に交換することが出来ませんでした。その為、ホイールは平たく潰れてしまったのです。彼らはトレイルの幅が十分に広くなるまでその潰れたタイヤでの走行を強いられたのでした。カール・ジャクソンは30年以上経過した今日においてもホイールが地面とぶつかる音を鮮明に思い出すことができます。あるタイヤ交換の間、風が非常に強く、ジム・フリッカーはカールがタイヤ交換をしている間、ジャッキの上に載ったトレーラーにしがみつかなければなりませんでした。その時、嵐の中で「フリッカーよ、私はマックウィーンが正しかったと思う」とカールがつぶやいていた事を思い出しました。彼らは結局、5度のタイヤ交換を被りました。
  • パンクだけが彼らが直面した難問ではありませんでした。草創期のバハレースでは、エントリーフィーがピットストップ時の燃料代としてあてがわれていました。ロザリオのピットでオフィシャルスタッフが彼らを本物のレース車両だと信じようとせず、彼らに給油しようとしなかったのです。「なぜレースカーがトレイラーを牽引しているんだ?」というのが彼らの言い分でした。ジャクソンとフリッカーはついにスペイン語を話せる人を探し出し、この狂ったアメリカ人がレース参加者だということを説明出来たのでした。
  • そして、トレイラーヒッチの事を覚えているでしょうか?ボルトは徐々に失われ長い時間をかけて姿を消しました。ストロップチームは遂にサンフェリペのピットで溶接工に頼り、トレイラーヒッチをフレームに溶接しました。レースの4分の3を消化した時の出来事でした。
  • エンセナーダでの旅の始まりから、26時間と2分後、カール・ジャクソンとジム・フリッカーは1971年バハ500をフィニッシュしました。彼らは単にレースをフィニッシュしただけでなく、タイムリミット内にゴールし、その上、多くのライバルを負かしたのです。カールはクラス19位、総合でも121台中、105位という結果に興奮しました。幾度となく繰り返されたタイヤ交換などの困難にも関わらず、カール・ジャクソンのこのトレイラーに対するイメージはとても良いものでした。レース後のトレイラーには外れてしまったカーテンレール以外、この困難な旅の形跡を示すものは何もなかったのです。キャラバンインターナショナルの重役たちはこの結果に歓喜し、1971年のメキシカン1000(旧バハ1000)レースに再びトレイラーを牽引させたレースカーを出場させるマーケティングプランをスタートさせたのです。重役の一人はカール・ジャクソンが大鉈で打ったようなダメージをいくつもトレイラーに与えているだろうと予測していたのです。
  • 1971年バハ1000マイルレースでのバハカリフォルニア半島を南下する旅は実現しませんでした。オーガナイザーであるNORRAがいくつかのポイントを問題視し、トレイラーのレースへの出場を拒否したためです。一つには、これはあくまでも推測ですが、世界で最も過酷なレースで、トラベルトレイラーを牽引しているレースカーが存在することの印象が良くないということであっただろうということです。その代わりに、ウェイニー・リンジーはトラベルトレイラーを牽引したブロンコをドライブして、キャラバン・インターナショナル社の本社があるインディアナ州へと戻りました。その後、このブロンコとトレイラーは4WDショーやRVショーを巡り、『パーネリー・ジョーンズをバハ500レースで負かしたトラベルトレイラー』として広告されたのでした(パーネリー・ジョーンズはこの年のバハ500でレースをフィニッシュしていないのです)。
  • カール・ジャクソンは1970年代中頃にストロップチームを去るまでビル・ストロップのブロンコをドライブし続け、そしてその際は、フォードワークスチームとして戦いました。その後も彼は、ボニービルのソルトフラッツにおいて、日産のワークスチームでピックアップをドライブし勝利を重ねました。その過程で彼は7つのワールドレコードを記録し、その内の6つの記録は未だに破られていません。1950年代から30年近くに渡りオフロードレーシングの世界で活躍したのです。
    今日、カールと妻のメンディーはレイクハバスシティに住み、メキシコ料理店を経営しています。 彼らはSCOREのオフロードレースの計測スタッフとして、オフロードレーシング界から引き続き必要とされています。30年以上が経過した今日でも、彼は未だにトラベルトレイラーを牽引してドライブした普通ではない旅を思い出すのです。決して繰り返すことのできない旅を・・・。
  • 2002年8月、北カリフォルニア在住のバハ・ブロンコスペシャリストであるN氏はアリゾナ州トゥーソンにおいて1971年式バハ・ブロンコを購入しました。彼がこのバハ・ブロンコを購入した理由は、彼の知るレースブロンコにその仕様が酷似していたからです。調べが進むにつれ、彼はこのバハ・ブロンコの素性について確かな結論に至るのでした。彼は1971年Baja500でのレースブロンコ(Travel Trailer Baja)の写真と購入したバハ・ブロンコを比較しました。共通点は、ストロップによってインストールされたロールゲージ(とても希少なパーツです)、同じ形のフード・スクープ、ストロップによって取り付けられた希少なロッカーパネルモールディングなどで、そしてこのバハ・ブロンコのトレイラーヒッチはフレームに溶接されていました。そう、レースブロンコはサンフェリペのピットでトレイラーヒッチをフレームに溶接しているのです。
  • そして彼はMarti Auto Reportを取り寄せVINナンバーを確認し、このブロンコが1970年代に製造された最初のバハ・ブロンコであること、そしてストロップに手渡された後、1971年6月初旬にフェアウェイフォードによってウェイニー・リンジーへとデリバリーされたことなどを確認したのです。この時点でN氏はこのバハ・ブロンコが1971年Baja500でのレースブロンコ(Travel Trailer)であることを証明しました。2003年2月、N氏はリンジーに面会し、この件について尋ねました。その結果、リンジーもその内容について間違えのないことを証言したのでした。
  • このトラックは、2006年Fabulous Fords Forever においてThe Most Outstanding Truck prizeを受賞したのです。このイベントはフォード社自身によって運営されており、その歴史的価値がメーカーによって認められた瞬間でした。
  • introduction_bajabronco_28 その際、カール・ジャクソン、ジム・フリッカー、そしてフェアウェイフォード社長のディック・ランドフィールドが賞を獲得したN氏のもとに集い、Travel Trailerのグローブボックスにサインしたのでした。
    そして2009年9月、当ガレージはN氏より1971 Baja Bronco Travel Trailerを譲り受け現在に至ります。
    ※この文章は2002年12月と2003年1月のカール・ジャクソン及びメンディー・ジャクソンとのインタビュー、2003年2月のウェイニー・リンジーとのインタビュー、ホイールアフィールドマガジン1971年9月号、トライステートモーターニュース2001年9月号を基に書かれたものです。